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小山ナザレン教会

小山ナザレン教会

By 小山ナザレン教会

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。
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アモス3:9−4:3「噛みつかれてしまった!」(稲葉基嗣)

小山ナザレン教会Apr 30, 2023

00:00
18:46
ルツ 4:1−12 「ボアズの抗議」(稲葉基嗣)

ルツ 4:1−12 「ボアズの抗議」(稲葉基嗣)

2023年 11月 26日 三位一体第25主日
説教題:ボアズの抗議
聖書:ルツ記4:1−12、コロサイの信徒への手紙3:12−17、マタイによる福音書18:15−20、詩編122
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
ルツを自分の妻として迎えるために、門の前で交渉をするボアズの言葉に、気になることがあります。ボアズがルツをモアブ人の女性と強調している点です。たしかに、これまでルツ記は何度も、ルツがモアブ人であることを強調し、彼女がイスラエルの社会で部外者であったと伝えています。門の前でのボアズの交渉は、ルツがモアブ人であることを利用して、ボアズがルツと結婚する道を拓いたかのように見えます。ルツがモアブから来た女性であることは、町中に知れ渡っていたことですから、わざわざルツがモアブ人であることを強調する必要などありません。それにも関わらず、ボアズがこの時、ルツがモアブ人であることを強調したのは、イスラエル社会に対して抗議するためだったのではないでしょうか。
ルツ記という書物が記されたのは、紀元前400年頃です。それは、エズラやネヘミヤという指導者によって導かれ、ユダと呼ばれる共同体をエルサレムの地に再建した時代でした。ネヘミヤの時代に、モアブ人は神の民に加われないと伝える、申命記の言葉が発見されました(ネヘミヤ13:1、申命記23:4)。エズラ、ネヘミヤの時代、ユダの人びとの間で、この考えが主流となっていきます。他の民族と一緒に生きていくよりは、自分たちは神に選ばれた民族だと誇り、他の民族と一緒に生きることを拒絶し、彼らを排除していくという考えです。この考えに基づいて、外国人と結婚している人びとは、離婚を強制されました。
このような考えが主流であった時代に、ルツ記は記され、嫌われていたモアブ人女性をイスラエルの共同体が受け入れたことを伝えました。そのような時代状況を知った上でルツ記を読み直してみると、ボアズの行動はまさに、イスラエル社会に対する抗議です。そして、外国人に対する受け入れと、祝福の声でした。
ルツ記の物語は、時代を越えて、わたしたちが生きるこの時代に対しても、抗議の声を上げているかのようです。わたしたちの社会は、どのような人たちを追い出してしまっているでしょうか?誰を排除してしまっているでしょうか?すべての人を愛し、慈しみ、多様な生き方や多様なあり方を喜ばれる神は、誰か特定の人たちを排除する社会や交わりをわたしたちが築いていくことを決して望んではいません。罪人といわれ、社会からのけ者にされている人の友とイエスさまがなったように、排除ではなく、受け入れ合って、一緒に歩んで行くとこを選び取り、共に生きることを模索する場所を作ることこそ、わたしたちに必要なことです。教会のあり方がそのような神の願いを少しでも映し出すものでありますように。
Nov 26, 202319:34
ルツ 3:1−18 「その翼を広げてください」(稲葉基嗣)

ルツ 3:1−18 「その翼を広げてください」(稲葉基嗣)

2023年 11月 19日 三位一体第24主日
説教題:その翼を広げてください
聖書:ルツ記3:1−18、ローマの信徒への手紙11:33−36、マルコによる福音書8:1−10、詩編91
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
ナオミの立てた計画は危険が多く、あまり賢いものとはいえません。ナオミが日中にボアズのもとに行き、親戚のひとりとしてルツと結婚してほしいとボアズにお願いすることはできたはずでしょうが、そのような行動をしなかったのは、到底受け入れてもらえないと思ったからでしょう。ルツもナオミも、ベツレヘムの社会において、あまりにも力がなく、立場も弱く、生きていくことに精一杯でした。だから、ルツが危険を冒して、大胆に行動する必要をナオミは感じたのでしょう。この計画に危険はあるけれども、ボアズならばきっとルツを受け入れてくれる。一筋の希望にすがるように、彼女たちはこの計画を実行しました。
その日の夜、ルツはボアズに結婚を申し込みました。「あなたの衣の裾(ヘブライ語では「翼」)を仕え女の上に広げてください。あなたは私たちの家を絶やさぬ責任のある方です。」(3:9)
ルツの言葉は、かつてボアズ自身がルツに語った言葉をボアズに思い起こさせるものでもありました。ボアズはルツと自分の畑で出会った時、ルツに神の守りと祝福を祈りました。「あなたがその翼のもとに逃れて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(2:12)親鳥がひな鳥たちを翼の下で隠し、雨風から子たちを守るように、神は、わたしたち人間を翼の下で隠し、日常的に守っていてくださいます。ルツにとって必要なのは、ボアズの守りでした。ボアズの翼のもとで、守られることをルツは望みました。ルツの結婚の申し入れを受け入れたボアズの行動は、翼を広げていくものでした。
旧約聖書の律法には、結婚をしている男性が亡くなった場合、その人の兄弟がその人の妻と結婚をして、その人の家系と財産を守るというものがあります(申命記25:5-10を参照)。ボアズはルツの亡くなった夫の兄弟でも、ナオミの夫のエリメレクの兄弟というわけでもないため、ルツはこの律法の保護を受ける対象とは言えません。けれど、ボアズはその責任を自分のものとして受け入れる決断をしています。律法を広く解釈した結果なのでしょう。そうすることによって、ボアズは外国人のルツを助けようとしました。ボアズは自分の決断と行動を通して、神の翼を広げようとしました。
ルツ記に登場したこの3人の物語がわたしたちに示すのは、わたしたち自身も誰かにとっての神の翼となることが出来るということです。神の憐れみや平安を届け、あなたが手を伸ばすことを通して、神の翼はこの世界に広がっていきます。
Nov 19, 202318:47
ルツ 2:1−23 「ここに居場所がある」(稲葉基嗣)

ルツ 2:1−23 「ここに居場所がある」(稲葉基嗣)

2023年 11月 12日 三位一体第23主日
説教題:ここに居場所がある
聖書:ルツ記2:1−23、エフェソの信徒への手紙3:20−21、マタイによる福音書6:25−34、詩編147
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
ベツレヘムの人びとにとって、ルツは外国人であり、よそ者です。ベツレヘムの人たちから煙たがられ、ときには無視され、軽蔑される存在として、ルツはベツレヘムの町で目立っていました。ベツレヘムは、ルツにとってあまり居心地の良い場所ではありませんでした。
ある日、ルツはひとりで畑に出て行こうとします。モアブ人であるルツにとって、ひとりで畑に出かけることは危険が伴いました。ベツレヘムの人びとから嫌がらせを受ける可能性があったでしょう。けれど、ナオミはそのようなことには一切触れず、ルツを畑へと送り出しています。ルツが、彼女の置かれているその現実を身をもって知り、モアブに戻る決断をするきっかけとなると考えたのかもしれません。
ルツはどうなったでしょうか?ベツレヘムの人びとの外国人差別を知ってひどく失望し、大した収穫も得られずに、手ぶらでナオミのもとに帰ってきたのでしょうか?夕方になり、ルツが帰ってきた時、ナオミは驚きました。ルツは手ぶらではありませんでした。その上、モアブ人であるために嫌がらせを受けるどころか、畑の所有者からとてもよくしてもらった経験を彼女はナオミに話し始めます。
この出来事はルツにとって、神の導きのみによるものではありませんでした。畑の所有者であるボアズの温かな配慮に触れた経験があったからこそ、この出来事を神の導きとして受け取ることが出来ました。一見、ボアズの畑で、何事もなく安全に過ごしたように見えるルツですが、実は、彼女は危険と隣り合わせでこの畑にいたことが想像できます。「私は僕たちに、あなたの邪魔をしないように命じておきます」(2:9)というボアズの言葉が、そんなルツを守りました。ボアズは言葉だけではなく(2:12)、彼女に神の守りが実際に行く届くように、彼にできる具体的な行動をしています(2:15−16)。彼は自分の畑で働く人たちに、ルツに危害を加えないように何度も伝えます。そうやって、ボアズはルツのために環境を整え、安全な場所を作っていきました。そして、彼女はこの畑で築かれている共同体の中へと、招かれていきました。
わたしたちが暮らす世界は、力のない人たちから、居場所を奪う世界です。ルツ記がわたしたちに語りかける世界に、耳を傾け、目を注ぎ続けるとき、わたしたちはこの世界の原理とは、違う原理が働く世界があることを知らされます。それは、排除するのではなく、招き入れる世界です。居場所を奪うのではなく、居場所を与え、居場所を作り出していく世界です。何よりも、「ここに、わたしのもとに、あなたの居場所があるよ」と、イエスさまはわたしたちに語りかけてくださっています。
Nov 12, 202318:25
ルツ 1:1−22 「境界線を乗り越える友」(稲葉基嗣)

ルツ 1:1−22 「境界線を乗り越える友」(稲葉基嗣)

2023年 11月 5日 三位一体第22主日
説教題:境界線を乗り越える友
聖書:ルツ記 1:1−22、ガラテヤの信徒への手紙 3:26−28、ヨハネによる福音書 14:5−6、詩編 32
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
異文化の中で暮らすナオミを襲った悲劇は、彼女の夫と息子たちの死です。男性優位の社会において、この当時の女性たちが生き延びる手段は、結婚することであり、自分の息子に助けてもらうことでした。けれども、夫も息子たちも亡くしたナオミにとって、頼る当てはありませんでした。
ナオミの状況は絶望的でしたが、彼女はモアブの野で噂を聞きました。神がイスラエルの民を顧みて、食べ物を与えてくださっている、と(6節)。故郷に戻れば、生きていく手段が見つかるかもしれない。そんな望みを抱いて、ナオミは旅立つことにしました。
ベツレヘムへ戻る上で問題となったのは、義理の娘たち、オルパとルツでした。モアブ人に対して良い印象を抱いていないイスラエルの社会に彼女たちを連れて行くなど、現実的に無理な話です。説得の末、オルパと別れることはできましたが、ルツは離れませんでした。ナオミはやむを得ず、ルツと一緒にベツレヘムへと旅立ちます。
10年ぶりの故郷ベツレヘムへの到着はどのようなものだったでしょうか。ベツレヘムの町に住む女性たちが騒ぎ立ちながらも、喜んで彼女を歓迎している様子が描かれています。一見、事態は好転しているように思えます。ベツレヘムに食料はあります。ナオミを歓迎してくれるコミュニティがあります。でも、ナオミは失望し、絶望で打ちひしがれています。彼女は自分の苦しみは不当なものだと感じ、神に訴え、抗議し続けています。
そんなナオミと一緒に居続けることを選んだのがルツという女性でした。モアブ人であるルツは、ベツレヘムの人びとから敵視されていた外国人です。人びとの無理解や偏見がルツを襲ったことでしょう。自分の生活を優先し、ナオミと別れてモアブに残れば、もっと快適に暮らす生活が待っていたかもしれません。けれど、ルツはナオミのいる場所へ共に行くために、境界線を越える決意をし、そこで受ける傷を引き受けようとしました。
ルツの生き様は、わたしたちが無意識のうちに引いてしまう境界線を越えてわたしたちが誰かと出会える可能性を伝えているかのようです。苦しみ、失望しているナオミに対して、ルツが境界線を越え、ナオミに寄り添い、共に歩もうとしたように、苦しむ誰かのために境界線を越えていくことが出来る。そんな生き方があることをルツはわたしたちに教えてくれます。
イエスさまもまた、苦しむ誰かに寄り添うために、境界線を越えようとしました。あらゆる境界線を越えて、イエスさまはすべての人のもとに訪れ、わたしたちの生涯のあらゆる時に、わたしたちと共にいてくださる方です。この事実は、わたしたちにとって大きな慰めです。
Nov 05, 202319:03
フィリピ4:10−23「贈り物の届け方」(稲葉基嗣)

フィリピ4:10−23「贈り物の届け方」(稲葉基嗣)

2023年 10月 29日 三位一体第21主日
説教題:贈り物の届け方
聖書:フィリピの信徒への手紙 4:10−23、ネヘミヤ記 8:9−12、マタイによる福音書 25:31−40、詩篇 23
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
パウロはエパフロディトを通して受け取ったフィリピ教会からの贈り物について、フィリピ教会に書き送ったこの手紙の最後で触れています。けれど、パウロがフィリピ教会の人びとに感謝を伝える言葉は間接的です。パウロはなぜ、もっとストレートに感謝の気持ちを伝えようとしなかったのでしょうか。
きっと、贈り物がその送り手と受け手に与える影響をパウロはよく知っていたから、注意深く言葉を選んで、感謝を伝えたのでしょう。というのも、贈り物には、両者の力関係を明らかにしてしまう側面があるからです。もしも、自分が贈ったプレゼントに対して、遥かに価値のあるものが、お礼として送り返されてきたら、自分と相手の立場の違いを知ることになってしまうでしょう。相手と自分の間にどれほどの力の差があり、どれほど社会的な立場が違うのかを嫌というほど突きつけられてしまいます。
パウロにとってフィリピ教会は喜びです。主キリストにあって結ばれている、信仰の友です。彼らは単なる、支援者とその支援の受け手といった関係でもありません。パウロは自分とフィリピ教会の人びとの立場の違いを明確にしてしまう恐れのある贈り物から自分やフィリピ教会を解放したかったのだと思います。
確かに、パウロがフィリピ教会から受け取った支援は喜ばしいものでした。でも、この贈り物が、彼らの関係性がどのようなものであるかを規定し、決定づけるものとはならないようにとパウロは願って、フィリピ教会の人びとに間接的に感謝を伝えたのでしょう。パウロにとって、贈り物があるから、フィリピ教会との関係があり、その関係が継続するのではありません。
彼らを結ぶきずなは、平和の主であるイエス・キリストです。贈り物や支援を届けることよってこの世界の力関係を更に強化しないように、持つ者と持たない者の立場を明確にするものとして、贈り物が利用されないように、パウロは贈り物を携えるわたしたちの視点を神へと移すように招きます。パウロの確信は、相手を心から気遣い、目の前で苦しむ人の助けとなったらと願う、その愛や憐れみの思いにおいて、わたしたちが誰かのために携える贈り物は、神に喜ばれるいけにえとなるということです。
パウロにとってエパフロディトがそうであったように、わたしたち自身の存在そのものが、誰かにとっての贈り物となり得ます。神の恵みや憐れみ、平和や正義を携えるならば、わたしたちはきっと、誰かにとっての贈り物となります。愛と憐れみに基づいた言葉や行いを贈り物として届け合うことができますように。
Oct 29, 202319:32
フィリピ4:4−9「喜びはベース音のように響き続ける」(稲葉基嗣)

フィリピ4:4−9「喜びはベース音のように響き続ける」(稲葉基嗣)

2023年 10月 22日 三位一体第20主日 説教題:喜びはベース音のように響き続ける 聖書:フィリピの信徒への手紙 4:4−9、エレミヤ書 31:23−27、ヨハネによる福音書 16:20−24、詩編 100 説教者:稲葉基嗣 ----- 【説教要旨】 いつも喜んでいるなんて、無理な話です。嬉しいことばかりで人生が満ちているわけありません。苦しい時期があります。パウロは、わたしたちから希望を奪い、喜びや笑顔を失わせることがこの世界に数多くあることをよく知っていました。そのような中でも、決して失われることのない喜びや希望をすべての信仰者たちが確かに持っていることを彼は強く信じていました。喜びを失ってしまう状況の中でも、決して失われることのない喜びがあることを、そのような喜びをわたしたちが確かに与えられていることをフィリピ教会の人たちに思い起こさせ、彼らの心に刻むために、パウロは「主にあっていつも喜びなさい」と語りかけました。 「主にあって」が、パウロにとって重要な言葉です。パウロは、この喜びの正体を短く説明し、いかにわたしたちの生涯がキリストに結ばれることを通して得る喜びに下支えされているのかを伝えています。パウロが伝える、わたしたちの喜びの正体は、「主は近い」ということです。キリストは必ず、将来、すぐに、わたしたちのもとにやってきて、天の御国をもたらしてくださいます。わたしたちの苦しみや悩み、暴力や不正義や憎しみの連鎖を終わらせ、わたしたちの世界を喜びで満たしてくださいます。死に勝利し、あたらしい命をこの世界で生きるすべてのものに与えてくださいます。そんな希望に満ちた約束が、実現することを心待ちにしていることがわたしたちの抱いている喜びです。 また、聖霊によってわたしたちはキリストと結ばれ、キリストはわたしたちと共にいてくださっています。神はわたしたち一人ひとりに関心をもっているため、キリストを通してわたしたちと共にいて、わたしたちに深く関わろうとしています。だから、パウロは神がわたしたちの声を聞いてくださることを決して疑いません。わたしたちが抱えるすべての思い悩みをわたしたち以上に知っている神に祈り、打ち明けて、神に信頼してすべてを委ねなさいと、パウロは勧めています。神は見張りのように、夜通しわたしたちを守っていてくださる方だからです。だからこそキリストに結ばれている人びとは、どのような危険が迫っていたとしても、喜びをいだき続けることが出来ると、パウロは信じています。 キリストにある喜びは、わたしたちの人生を華やかに彩る装飾音とは違います。神がわたしたちに喜びを与え、わたしたちの人生を下支えするベース音を鳴らし続けてくださっています。主キリストによって与えられた喜びは、いつも、わたしたちの人生を下支えする低音として、わたしたちの人生に響き続けています。

Oct 22, 202321:37
フィリピ4:2−3「彼女たちを助けてあげてください」(稲葉基嗣)

フィリピ4:2−3「彼女たちを助けてあげてください」(稲葉基嗣)

2023年 10月 15日 三位一体第19主日
説教題:彼女たちを助けてあげてください
聖書:フィリピの信徒への手紙 4:2−3、サムエル記 上 20:11−15、ルカによる福音書 5:27−32、詩編 15
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
パウロはエボディアとシンケティというふたりの女性の名前を書き、「彼女たちを助けてあげてください」(4:3)とフィリピ教会の人びとに依頼します。一見、福音のために毎日奮闘している彼女たちが助けを必要としていることとは、フィリピでキリストを信じて生きることであり、教会の指導者として人びとを励ますことのように思えます。
でも、パウロは別のことを考えて、フィリピ教会の人びとに依頼しています。このふたりの女性たちに向けられた、「主にあって同じ思いを抱きなさい」(4:2)という言葉が、このことを考える上での大きな手がかりです。
全く同じフレーズをパウロは2章2節で用いているため、キリストを模範として、お互いにへりくだり、相手を自分よりも優れた者と思うことをもう一度思い起こして欲しいと願ったのでしょう。このことをエボディアとシンケティに思い起こさせる必要があったということは、このふたりの間に対立やいさかいがあったからなのでしょう。
ふたりの女性たちの対立を解決しようと試みたパウロがとった方法は、いくつかの点で、現代社会に生きるわたしたちの方法とは違っていました。もしも現代社会ならば、何か大きな問題があった場合、実名入りで告発します。けれど、パウロは批判や非難をするために、彼女たちの名前を挙げませんでした。寧ろ、パウロは彼女たちの友として、また、親しい同労者として、このふたりが対立していることを取り扱い、ふたりの間に和解を求めています。
パウロが和解を求める方法はとても現実的です。ふたりだけで問題が簡単に解決できるとは思っていません。だから、ふたりがまた手を取り合って、キリストのために生きることができるように、フィリピ教会の指導者としてふさわしく、このふたりが良い関係を築けるよう、どうか助けてあげてくださいと、フィリピ教会の人びとにお願いしました。
現代に生きるわたしたちは、パウロのこの姿勢にしっかりと学ぶ必要があります。現代に生きるわたしたちの感覚ならば、対立するふたりがいるならば、どちらの味方につくかを迫られ、ひとつの群れがふたつのグループに別れ、ますます対立が深まってしまいます。もしくは、そんな対立など他人事です。最初から諦めてしまいます。
けれど、エボディアとシンティケの対立は、ふたりだけの問題ではありません。彼女たちが対立したままならば、憎しみがどんどん膨れ上がってしまいます。だから、パウロは「彼女たちを助けてあげてください」(4:3)と呼びかけました。彼女たちだけの力では解決できなくても、誰かが平和の手を差し伸べるならば、きっと解決へと導かれると、パウロは信じています。
和解を求めてわたしたちが間に立つところに、キリストが一緒に立ってくださるはずです。
Oct 15, 202319:30
フィリピ3:17−4:1「お互いを模範として歩む」(稲葉基嗣)

フィリピ3:17−4:1「お互いを模範として歩む」(稲葉基嗣)

2023年 10月 8日 三位一体第18主日
説教題:お互いを模範として歩む
聖書:フィリピの信徒への手紙 3:17−4:1、イザヤ書 26:16−19、マルコによる福音書 1:14−15、詩編 8
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
学生や弟子たちがその先生や師匠の真似をすることはとても重要なことです。真似をすることを通して、学生や弟子たちは、先人の知恵や技術、またその背後にあるものの考え方などを受け継ぎ、身に着けていきます。キリストを信じて生きることにも、それと似た側面があります。どのように祈り、聖書を読み、どのように信仰者として物事を見つめ、どのように身の回りや世界中で起こる出来事について考え、そして、信仰を抱いてどのように生きるのかついて、わたしたちは礼拝や教会での交わり、先に信仰を持った人びとを通して学びます。
誰もがパウロのようになる必要はないはずなのに、なぜパウロは「私に倣う者となりなさい」(17節)と書いたのでしょうか。それは、パウロのうぬぼれた態度や考えから出たものではありませんでした。寧ろ、フィリピ教会の人たちを心から気遣った言葉でした。フィリピの社会の中でマイノリティであったフィリピ教会の人びとにとって、何の頼りも指針もなく、フィリピでキリストを信じて生きることは無理な話でした。一体、フィリピでどう生きればよいのか。色々な教えや考えに晒され、右往左往しながら、フィリピ教会の人たちはキリストを信じる生活を送っていました。だからこそ、パウロはそんな彼らに見える指針として、自分自身を提示しました。
もちろん、パウロは自分のみを模範として示すことの限界や、その歪さをよくわかっていたのだと思います。「私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(17節)と書き、近い将来、同じフィリピの町で同じ信仰を抱いて生活をする予定である、自分の同労者テモテとフィリピ教会へ送り帰す予定のエパフロディトをフィリピ教会の人々への模範として示しています。
模範であるのは、テモテやエパフロディトだけでもありません。キリストを信じる信仰者たちが、お互いに学び合うようにとパウロは促しています。わたしたち一人ひとりは良いものも、素敵なところもあれば、反対に、弱い部分も欠けている部分も持ち合わせています。でも、お互いを模範として、学び合うことができます。
ところで、わたしたちは具体的に何を学ぶべきなのでしょうか。パウロによれば、それは、わたしたちの国籍が天にある、ということです。ローマの市民権を持った人びとがフィリピでローマ的に生きたいと願ったように、いや、それ以上に、天の国が告げる喜びや平和や正義が、わたしたちの人生や、わたしたちの生きるこの世界を包み込んでほしいとわたしたちは願っています。だからこそ、悩み、葛藤する旅において、天の国を目指す者の姿を学び合い、お互いに模範として見つめ合う、信仰の友がわたしたちには必要です。
Oct 08, 202322:24
フィリピ3:12−16「ランナーのように目標を見据えて」(稲葉基嗣)

フィリピ3:12−16「ランナーのように目標を見据えて」(稲葉基嗣)

2023年 10月 1日 三位一体第17主日
説教題:ランナーのように目標を見据えて
聖書:フィリピの信徒への手書 3:12−16、エゼキエル書 36:22−28、マタイによる福音書 5:43−48、詩編 130
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
わたしたちの人生は旅と表現されることがあります。その旅において、わたしたちは目的地を目指して歩んでいます。多くの人は、人生の旅路の目的地を終着点と呼びますが、わたしたちにとっては、終わりであり、始まりです。わたしたちは復活の望みと、天の国で神と共に生きる希望を持っているからです。その意味で、わたしたちにとって、この旅は目的地にたどり着く日を今か今かとワクワクしながら歩み続ける、喜びにあふれる旅です。旅という言葉は、人生を表すのにぴったりな比喩表現だと感じます。
でも、パウロは目的地へ向かう信仰者たちの姿をフィリピの人たちに伝える上で、旅ではなく、徒競走(スタディオン走という短距離走)を比喩として用いました。古代の短距離走は、神々に捧げるお祭りとして行われました。優勝者のみが冠を受け取り、神々の祝福と多くの富と名声を得ることができました。優勝者以外はすべて敗者でした。そこにはスポーツマンシップなどありません。いかに相手を蹴落として自分が一番になるのかが彼らにとって重要なことでした。
パウロはなぜこのような比喩を用いたのでしょうか。パウロは競争原理をフィリピ教会に持ち込むために、この短距離走のイメージを用いたわけではありません。パウロがこの時に短距離走のイメージを用いたのは、ゴールを目指してひたすらに前を向いて走り続けるランナーのように、キリストを信じる人びともひたすらに追い求めるものがあると伝えたいと願ったからです。
キリストに既に捕らえられ、神の恵みの中で生かされているパウロは、キリストに捕らえられたように、自分もキリストを捕らえたい。つまり、キリストを更に知り、キリストとの関係を深めていきたいと強く願いました。パウロにとってそれは、短距離走のランナーのように、ゴールを目指して前のめりにひたすらにキリストを求めることでした。
ある意味で、それはこの地上の歩みでは決して完成しないものです。完全にキリストを知ることはできません。というのも、誰かを知り、関係を深めていくためには、時間が必要だからです。けれども、キリストとの交わりは、わたしたちの信仰の旅を通して、たしかに完成へと向かって成熟していきます。だから、その交わりが深まり、完成へと向かっていくことを心待ちに、パウロは前のめりになってひたすらにキリストを求めました。
キリストとの出会いは、わたしたちを愛や憐れみ、平和や正義へと突き動かします。どうかみなさんとキリストの交わりを通して、神の愛と憐れみ、平和と正義がこの世界に広がっていきますように。
Oct 01, 202321:23
フィリピ3:1−11「君の誇りは何?」(稲葉基嗣)

フィリピ3:1−11「君の誇りは何?」(稲葉基嗣)

2023年 9月 24日 三位一体第16主日
説教題:君の誇りは何?
聖書:フィリピの信徒への手紙 3:1−11、エレミヤ書 4:1−4、マルコによる福音書 10:17−27、詩編 46
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
驚いたことに、パウロはフィリピ教会に宛てた手紙の中で、彼自身が誇りと思っていたことについて、7つも挙げました(5−6節)。パウロは自分の能力や出自を誇るためにこのような話をしたわけではありません。これまで自分が心から誇りとして抱き、頼りとしてきたものは、無意味なものに変わってしまった、ということでした。ユダヤ人であることを誇りとすることや、律法を熱心に守ることを誇りとすることは、自分にとって益となることではなく、むしろ損害であり、それらはゴミクズや塵に等しいとまでパウロは言います(7−8節)。
パウロからこの言葉を引き出すきっかけを作ったのは、キリストを信じるユダヤ人の一部の人たちの存在でした。彼らはキリストを信じる異邦人もユダヤ人のように生きるべきと考えました。彼らの考えは、ユダヤ人であることが、救われるために必要であるかのようです。
でも、違いますね。キリストにある救いは、ユダヤ人の誇りを必要としません。
わたしたちが持っているようなあらゆる誇りも、わたしたちが他人を羨んだりしてしまうような特別な何かも、必要ありません。わたしたちに与えられている合言葉は、「神の恵みによって」です。ただ神がわたしたちをキリストを通して愛してくださった。そのことゆえに、すべての人は神の救いへと招かれています。
だから、ユダヤ人の誇りを誰からも押し付けられる必要はありません。パウロは何の条件もなく、ただ神の一方的な恵みによって、すべての人を救いへと招くキリストと出会い、彼が長い間抱いていた、ユダヤ人の誇りを自分の救いのために必要な信頼できるものと考えることをやめました。イエス・キリストこそが救いの望みとなったからです。
キリストとの出会いは、パウロの価値観を大きく変える出来事でした。キリストのみがわたしたちの望みであり、誇りであることは、私たちが持ち合わせる、さまざまな誇りを本来あるべき価値へと戻してくれます。パウロはキリストにのみ望みを置き、キリストのみを誇りとすることによって、律法を神が与えた道しるべという本来あるべき位置へと戻すことができました。
キリストはわたしたちを結びつける絆であり、愛と憐れみと平和を教える方です。誰かをコントロールするのではなく、誰かに仕える生き方を指し示す方です。そして、イエスさまはわたしたちに復活の希望を与える方です。復活の希望には、この世界のあらゆるものの回復が含まれます。それは、私たちが喜びと誇りを抱くけれど、簡単に移ろいゆき、傷つき、朽ち果て、失われてしまうものも含まれているということです。キリストこそ、私たちの希望であり、誇りです。
Sep 24, 202318:53
創世記1:27-31「正義と平和が流れるように(Let Justice and Peace Flow)」(ニシャンタ・グネラトゥネ)

創世記1:27-31「正義と平和が流れるように(Let Justice and Peace Flow)」(ニシャンタ・グネラトゥネ)

2023年 9月 17日 三位一体第15主日
説教題:正義と平和が流れるように(Let Justice and Peace Flow)
聖書:創世記 1:27−31、マタイによる福音書 5:1−12、ローマの信徒への手紙 8:19−21、詩篇 24
説教者:ニシャンタ・グネラトゥネ(スリランカ・メソジスト教会 牧師)


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【説教要旨】
「被造物の季節(Season of Creation)」です!
「被造物の季節」は通常、9月1日から始まり、10月4日まで続くこの月間は、「神によって造られた地球環境を保護する」というテーマを探る機会を1ヶ月間わたしたちに与えてくれます。 今年の「被造物の季節」月間の標語は、「正義と平和が流れるように(Let Justice and Peace Flow)」です。 正義と平和のどちらもが大きく欠けている現在の世界情勢を考えると、 このテーマは、とても力強く響きます。
世界中で、わたしたちが生きている深刻な現実への対抗手段として、 わたしたちは正義と平和の民であるようにと、招かれています。 わたしたち自身の生活と、わたしたちの周囲の世界において、 正義と平和を探し求め、それらの価値を支えるようにと、 正義と平和の民は招かれています。 神による世界の創造の文脈の中で、これが意味することを理解するために、 正義と平和が結びつく、3つの方法を考えてみましょう。
① 正義は神の善と主権を信じることに根ざしています。 創世記1章27節はわたしたちがどのようにお互いを見て、 どのようにお互いに接するべきかという、基礎となる確信を打ち立てます。 もしも正義が神の善と神の主権に基づかないならば、 それはほんとうの意味で存在することはできません。
② 正義は平和と切り離すことができません。 平和をつくる者であるために、わたしたちは正義のために努力します。 わたしたちは、わたしたちの関係やコミュニティにおける 平和の回復のために務めなければなりません。 もしもわたしたちが、この平和の回復のための働きにおいて、 縦と横の関係、つまり神との関係と他の人びととの関係だけでなく、 自然環境との健全な関係も同じように、考慮し、培い、育んだら、どうでしょうか?
③ 正義と平和は、地球全体と複雑に絡み合っています。 わたしたちは神によって造られたこの世界の管理者として招かれています。 自然環境に配慮し、被造物を守るようにと、わたしたちは招かれています。 この被造物の季節という月間において、大切に時間を使いましょう。 正義を追い求めるために。 そして、わたしたちの生活とわたしたちを取り囲む世界において、 平和を育む努力について考えるために。 想像してみてください。 正義と平和の川がただちに駆け巡るならば、どうなるでしょう? さぁ、正義と平和を流れさせましょう!
Sep 17, 202321:49
フィリピ2:19−30「歓迎してください」(稲葉基嗣)

フィリピ2:19−30「歓迎してください」(稲葉基嗣)

2023年9月10日 三位一体後14主日
説教題:歓迎してください
聖書:フィリピの信徒への手紙 2:19−30、レビ記 19:18、マタイによる福音書 22:37−40、詩編 133
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
パウロはふたりの人物を送り出す計画をフィリピ教会の人びとに伝えています。どうかこのふたりをそのように温かく教会の交わりへと迎え入れてほしいと、パウロはフィリピ教会の人たちにお願いしています。
パウロがフィリピ教会の人びとのもとへと送り出そうと考えていた人物のひとりは、パウロの福音宣教の同労者テモテです。テモテのことをフィリピ教会の人びともよく知っていたので、テモテを遣わす計画を立てているというパウロのこの言葉は、フィリピ教会の人たちに受け止められ、歓迎されたことでしょう。
もうひとりの人物はエパフロディトで、パウロは彼をテモテよりも先に送り出しました。エパフロディトは、エフェソで投獄されたパウロを支援するために(4:18)、フィリピ教会を代表してパウロのもとを訪れた人物でした。フィリピ教会の人びとは、パウロに十分な食事を提供することだけでなく、投獄中にパウロが行いたいと願うさまざまなことを実際に助けて欲しいと願って、エパフロディトをフィリピ教会の代表として、パウロのもとに送り出したと思います。エパフロディトを通じて物質的・金銭的な支援があり、彼が来てくれたということは、パウロの投獄中の生活にとって助けとなりました。また、パウロに大きな励ましと慰めを与えたことでしょう。
でも、ひとつトラブルが発生しました。エパフロディトの瀕死の病です。この出来事が原因で、エパフロディトは本人が願っていた通りの働きをパウロのもとですることが出来ませんでした。もちろん、手紙を届け、食料を調達するなどの最低限の助けはできたでしょう。でも、それはフィリピ教会の人びとやエパフロディト本人が望んでいた理想の支援とは違っていました。だからこそ、彼は失敗したと感じ、落胆し、自分に失望しました。そんなエパフロディトを近くで見ていたから、エパフロディトをフィリピへと帰すとき、彼がフィリピ教会で歓迎されることを願って、パウロはこの手紙を書きました。パウロはエパフロディトを通しての支援への感謝をフィリピ教会に伝えています。そして何よりも、失意の中にあるエパフロディトを教会の交わりの中で歓迎し、愛をもって受け止めて、慰めてほしいと教会に伝えています。
再び立ち上がり、歩き出すために、安心して帰れる場所が誰にも必要です。エパフロディトにとって、それはフィリピ教会の交わりでした。パウロはエパフロディトが安心して戻れるように、教会のあるべき姿を改めて思い出して欲しいとフィリピ教会の人たちにお願いしました。「主にある者として大いに歓迎してください」(2:29)と。主キリストに結ばれている者として、主イエスに受け入れられたように、お互いに受け入れ合うことを思い出してください、と。
Sep 10, 202322:14
フィリピ2:12−18「ここから始めよう」(稲葉基嗣)

フィリピ2:12−18「ここから始めよう」(稲葉基嗣)

2023年9月3日 三位一体後13主日
説教題:ここから始めよう
聖書:フィリピの信徒への手紙 2:12−18、創世記 15:5−6、マタイによる福音書 5:14−16、詩編27
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
一方的な神の恵みによって、救いは、贈り物としてすべての人のもとに訪れ、わたしたちは神の子どもとされています。でも、「自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)というパウロの言葉は、それと正反対のものに感じます。まるでわたしたちのとった行動によって、救いが完成するような印象さえ受けます。
パウロが言いたいのはもちろん、そのようなことではありません。パウロが言いたいことは、彼がフィリピ教会の人びとに「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(1:27)と既に伝えていたことです。キリストを通して既に起きた出来事は、単に過去に起こった喜ぶべきものではなく、今のわたしたち自身の生き方にも大きな影響を及ぼすものです。
救いを与えられたわたしたち自身は、その救いをあずかっている現実をどのように生きるのかを神から委ねられています。その救いの現実が信仰者の心の中に留まるだけでなく、人格と生活のすべてに、外へ外へと広がっていくことをパウロは願いました。
同時に、いやそれ以上に、パウロはフィリピ教会の交わりが福音にふさわしく、救いの現実を生きるものであってほしいと願っています。キリストが与えてくださったものをこの交わりの中で、発見し、その発見を喜んで、そして味わってほしいというのがパウロの願いです。フィリピ教会が福音にふさわしく生きるならば、救いの現実を生きることに努めるならば、彼らは交わりの中でキリストの愛や憐れみや慰めを見出すことができます。キリストを通して与えられたものをお互いに分かち合いたいと願うからです。
それにしても、パウロの語ることは無理難題に思えます。不平不満や、誰かを見下す思いや、お互いをけなしあったり、自分中心であることは、フィリピ教会の中にもあったでしょう。けれども、そんな現実を乗り越えて、お互いにへりくだり、相手を尊重する交わりを教会が形作っていくことができると、パウロは信じています。神は教会に集う一人ひとりに働きかけて一人ひとりを新しく造り変えることが出来る方だからです(2:15−16)。
神はすべての人を分け隔てなく教会へと招いているのですから、特定の人が集まるグループよりもたくさんの問題が教会には集まります。でも、パウロは、教会という交わりの中に神の力が働き、ここに集う人びとを地上の星のように輝かせてくださると信じています。神は、小さなわたしたちの存在を通して、この世界を照らそうと願っています。ここから、この教会の交わりから、神はこの世界を照らし出そうとしています。この交わりに集うわたしたちを少しずつキリストに似たものへと変えることを通して。
Sep 03, 202318:08
フィリピ2:1−11「教会が歌い続ける理由」(稲葉基嗣)

フィリピ2:1−11「教会が歌い続ける理由」(稲葉基嗣)

2023年8月27日 三位一体後12主日
説教題:教会が歌い続ける理由
聖書:フィリピの信徒への手紙 2:1−11、イザヤ書57:14−21、マタイによる福音書 11:28−30、詩編 1
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
わたしたちの礼拝に賛美歌を歌うことが欠かせないように、パウロにとっても賛美歌を歌うことはとても大切なことでした。かつてパウロがフィリピの町で捕まり、牢屋に入れられたとき、パウロは神を賛美する歌を夜中に、牢獄の中で歌いました(使徒16:25)。獄中で過ごす夜は彼らにとって、不安や恐怖を覚えるものであったことでしょう。彼らはそんなとき、神への感謝と賛美を心に抱き、神がかつて信仰者たちに伸ばしてくださった救いのわざを思い起こし、神に希望を置き、神を信頼することを思い起こすために、賛美歌を歌いました。信仰者が賛美歌を歌うことによってどれほど励ましと慰めを受けるかパウロは自らの経験を通してよく知っていたのだろうと想像できます。
フィリピ教会の人びとに、へりくだって生きることを教えるとき、パウロは、へりくだりについて最低限の説明をし、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」と書いた後、賛美歌を引用し始めます。たくさんの言葉を重ねて説明するよりも、キリストを見つめて歌う賛美歌を一緒に歌うことこそが、へりくだりとは何であるかを知り、フィリピ教会に集う信仰者たちの交わりや彼らの信仰の旅が豊かになる上で、重要なことだとパウロは考えたのでしょう。
パウロはこの賛美歌をフィリピの人たちに一緒に口ずさんでほしかったのでしょう。歌はわたしたちの身体を必要とします。そして、繰り返し歌う時、歌はわたしたちの生活に浸透します。昼も、夜も、時間を問わず、歌はわたしたちと共にあることができます。場所を問わず、思い起こすことができます。わたしたちの存在のすべてに、わたしたちの生活のすべてに、行き渡り、浸透することができるのが、賛美歌でした。信仰者の生き方に、人生のすべてに、教会の交わりのあらゆる場面に、キリストの道が広がっていくことを願ったから、キリストのへりくだりを歌うこの賛美歌をパウロはフィリピ教会の人々に届けたのではないでしょうか。
神のもとにいたキリストが下へ、下へと降っていったことをこの賛美歌は歌います。イエスさまの徹底的なへりくだりの意味をこの賛美歌は事細かに説明しません。教会の交わりの中で歌われながら、日常生活の中で、昼も夜も口ずさみながら、キリストのへりくだりと向き合い続けることこそが狙いなのでしょう。教会の歌声によって神の救いのわざを思い起こし、教会の歌声によって励まされ、慰めを受け、キリストを示されて、わたしたちはこれからも御国へ向かう旅を続けていきます。これからも賛美歌がみなさんの心に響き、日常の中に染み渡っていきますように。
Aug 27, 202318:36
フィリピ2:1−4「教会が奏でるハーモニー」(稲葉基嗣)

フィリピ2:1−4「教会が奏でるハーモニー」(稲葉基嗣)

2023年8月20日 三位一体後11主日
説教題:教会が奏でるハーモニー
聖書:フィリピの信徒への手紙2:1−4、創世記1:26−27、マタイによる福音書18:1−5、詩編122
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
教会がひとつであり、一致しているとは、どのような状態のことなのでしょうか。みんなが同じ考えや思想を抱いているということでしょうか。組織がしっかりと機能していることでしょうか。
パウロの言葉は一見、みんなが同じような考え方を持つことをパウロが望んでいるかのように思えてしまいます(2節)。けれど、2節で2度も登場する「思い」と訳されている単語は、頭で考えることや意見を述べることだけでなく、心で抱く感情や、態度や、意志を含んだ意味を持っています。そのため、同じ思想を持っている状態とは違います。むしろこの単語を用いることによって、同じことを追い求める心や、その姿勢を伝えています。考え方や心に抱く思いは違うかもしれないけれど、教会は同じ方向に向かって、天の御国へと向かって旅をしています。
「同じ愛を抱き」と書いているように、パウロにとって、教会の交わりの基盤は、キリストによって示された神の愛です。神の愛によって呼び出され、共に集い、共に天の御国を目指すその旅を通して、教会がその交わりを深めていこうとすることをパウロは願っています。
同じ考えを持つことを強いられることなく、いろいろな考えをもつ人たちが集ってくるのですから、教会の交わりの中に、すれ違いや衝突や対立が起きる可能性があることは、ある意味で自然なことです。だからこそ、そのような衝突やいさかいを乗り越えていくために必要なことをパウロはフィリピ教会の人びとに語りかけました。それはへりくだり、互いに相手を自分よりも優れた者と考えることでした(3節)。そのような交わりを持つ教会の姿はまさに、お互いが神のかたちに造られたこと(創1:27)を真剣に受け止めて、目の前にいる人の存在を心から喜んでいる姿だと思うのです。
パウロが2節で「心を合わせ」と語るとき、彼はそこで、調和するという意味の単語を使っています。教会の交わりは、まさにハーモニーを奏でていくものだと思います。それは、フィリピの町で暮らすローマの退役軍人たちが一致を考える時に思い描いたような、軍事的なヒエラルキーとは違いました。軍事的な統制は、決まりきった音だけを鳴らすことが求められます。けれど、教会の交わりが奏でるハーモニーは、もっと自由で、大胆なものです。誰もが美しく、個性的で、素敵な音を鳴らしているからです。お互いの声に耳を傾け合いながら、美しいハーモニーを奏でる交わりをこれからも築き続けていきましょう。
Aug 20, 202318:27
フィリピ1:27−30「わたしたちはなぜ集まり続けるのか?」(稲葉基嗣)

フィリピ1:27−30「わたしたちはなぜ集まり続けるのか?」(稲葉基嗣)

2023年8月13日 三位一体後10主日
説教題:わたしたちはなぜ集まり続けるのか
聖書:フィリピの信徒への手紙1:27−30、ルツ記1:15−18、マタイによる福音書5:13、詩編85
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
パウロの時代、キリストを信じて生きる人びとは、社会的なマイノリティでした。ローマ的なフィリピの社会において、キリストを信じる人たちは、浮いた存在でした。社会の中で他とは違う存在であることは、小さな嫌がらせにあう原因にもなります。周囲の人から奇妙がられ、避けられた経験があったかもしれません。そういったことの積み重ねが、フィリピ教会の人びとにとって、信仰を捨てることにもなり得たかもしれません。
そのような危険を感じ取ったからこそ、パウロはフィリピ教会の人びとに向かって、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27節)と勧めました。「生活を送りなさい」と言う時、パウロはローマの都市ポリスの動詞形を使いました。つまり、「ポリスに生きる市民として生活をしなさい」と。
「キリストの福音にふさわしい」という言葉がついていなかったなら、フィリピの町でローマ人らしく生活を送るようにしたら良いよというアドバイスのように聞こえますが、そのような生き方をパウロはキリスト者の生きる指針として紹介していません。フィリピ教会の人びとにとって、生きる上での基準や指針となるものは、キリストの福音ですよ、とパウロは伝えています。
キリストがどのように生きたか。どのように愛や憐れみを示して生きたのか。どのように平和や正義を求めて生きたのか。そういったことを心に刻み、福音にふさわしくフィリピで生活を送りなさいと、パウロはフィリピ教会の人びとに勧めました。
パウロがこのように勧めるのは、キリストに結ばれている人びとは、フィリピにおいて市民権を持ちつつ、天における国籍を持っているという確信をパウロが持っていたからです。キリストを生きる上での指針として持ち、天に国籍を持ちながら、フィリピで生きることは、フィリピ教会の人たちの毎日に葛藤や苦しみを生んでいたことは間違いありません。パウロは、日々の生活の中で抱える苦しみや葛藤をひとりで抱え込むものとは考えていません。フィリピ教会の人たちが共に分かち合い、担い合うものと考えています。
時代が変わっても、文化が違っても、キリストに結ばれている信仰者たちはこの葛藤や苦しみを抱え続けています。だからこそ、この社会の中でマイノリティとして生き、この世界の基準とキリストの福音との間で葛藤し、苦しみを抱えるわたしたちも、フィリピ教会が苦しみや葛藤を分かち合い、信仰の旅路を歩んだように、葛藤や苦しみを分かち合って、お互いに支え合っていくことが必要です。それは、わたしたち教会が毎週のように集まり続けることの理由のひとつです。
Aug 13, 202318:02
フィリピ1:19−26「キリスト者は死をどのように見つめるのか?」(稲葉基嗣)

フィリピ1:19−26「キリスト者は死をどのように見つめるのか?」(稲葉基嗣)

2023年8月6日 三位一体後9主日
説教題:キリスト者は死をどのように見つめるのか?
聖書:フィリピの信徒への手紙 1:19−26、コヘレトの言葉7:1−6、マタイによる福音書5:9、詩編34
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
「死ぬ日は生まれる日にまさる」というコヘレト7:1の言葉は、命が終わることをきちんと受け止めて、死と向き合うことを促す知恵の言葉です。きょうのパウロの言葉は、彼が自らの死を見つめて、死と向き合った末に綴った言葉と言えるでしょう。
パウロはなぜ、死んでキリストと共にいる方が良いと書いたのでしょうか(23節)。パウロは生きることを完全に諦めてしまったから、このような言葉を綴ったわけではありませんでした。寧ろ、パウロは生きることを願っていました。フィリピ教会の人びとと再会し、語り合うことを願っていました(24−26節)。でも、その願いが叶わないかもしれないと、パウロは考えていました。投獄された状況下にあったパウロにとって、彼の命はいつ奪われるかもわからないものだったからです。でも、迫りくる死は、彼から希望を奪えません。キリストと共にいることを奪うこともできません。その確信を込めて、パウロは次のように書きました。「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです」(21節)
パウロの心からの願いは、世を去ることではなく、キリストと共にあることです。生きることにおいても、死ぬことにおいても、キリストと共にいることが出来るとパウロは確信していました。
パウロにとって、問題であったのは、自分がいなくなってしまった後のフィリピ教会のことです。いつ訪れてもおかしくない自分の死と向き合い、死によっても、希望は決して消えることがないことを思い起こしながら、それでも、パウロは生きることを願い続けました。その意味で、パウロは決して、自分の命を軽く見て、「死ぬことは益なのです」と言ったわけではありませんでした。そのため、わたしたちは、復活の命があるのだから、天の御国が将来与えられているのだからといって、この地上での命を軽く見るようには決して招かれていません。
パウロにとって、死はパウロ個人だけの問題ではありませんでした。悲しいことに、現代社会は死をとても個人的なものとして扱っています。だからこそ、わたしたちは、交わりの中で生き、交わりの中で死を見つめ、交わりの中で死を迎えたいと願います。交わりの中で生きることに喜びがあります。人は一人で生きていける存在として造られていないからです。そして、死を、信仰をもって、この交わりの中で見つめたいと思うのです。
Aug 06, 202320:02
フィリピ1:12−18「たとえ理想通りでなかったとしても」(稲葉基嗣)

フィリピ1:12−18「たとえ理想通りでなかったとしても」(稲葉基嗣)

2023年7月30日 三位一体後第8主日
説教題:たとえ理想通りでなかったとしても
聖書:フィリピの信徒への手紙 1:12−18、創世記50:15−21、マルコによる福音書4:26−29、詩編122
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
福音は、イエス・キリストによって実現した神の救いを言い表し、キリスト教会がその喜びを宣言する言葉です。パウロにとって、福音は自分だけが喜ぶべきものではありませんでした。パウロにとって福音は、民族も、社会的な立場も、文化も、物理的な距離も、時代的な距離も、乗り越えていくことのできるものでした。あらゆる場所に喜ばしいニュースが広がることを願ったから、パウロはイエスさまを伝える旅を続けました。
全世界に福音が行き渡っていくことは、パウロが抱いた理想でした。そんなパウロの思いを知っていたであろうフィリピ教会の人たちは、パウロが投獄されていることを耳にしたとき、パウロがどれほど落胆しているのかを想像したことでしょう。
でも、驚いたことに、パウロは喜んでいます。投獄され、鎖に繋がれ、自由を奪われている自分のこの現状が、「かえって福音の前進につながった」(12節)からです。投獄がきかっけとなり、パウロは兵士たちにキリストを伝える機会を得ました。また、パウロが捕らえられたことを知り、立ち上がった人びともいました。パウロを貶めたいという悪い動機を持っていた人がいたとしても、結果的にキリストの名が広まり、福音が広まっていったことをパウロは知りました。
たしかにそれはパウロの理想通りの福音の広がり方ではなかったと思います。けれども、パウロが直面した障害や困難さえも、神が用いて、神ご自身がその目的を実現してくださることをパウロは知りました。自分は逮捕され、不自由であるけれど、「かえって福音の前進につながった」と。
パウロがここで使っている「前進する」と訳されているギリシア語の単語は、障害や困難を切り開いて前進していくという意味です。障害を乗り越え、切り開いて、確かに福音は前進しているというパウロの強い確信がこの言葉には込められています。
パウロが生きた時代から2000年近い時が流れて、今、キリストの福音はどれほどこの世界に、この社会に広がっているのでしょうか。教会はあり、福音は語られているけど、この世界には争いも、不正義も、不平等があり、人間の悪がはびこっています。まだまだキリストの福音が前進を求めているのは明らかです。キリストの平和や憐れみがもっともっとこの世界に浸透していく必要があります。
一体どうやって、この世界で、この時代に、福音は前進していくのでしょうか。キリストの福音に触れ、福音を喜ぶ、ありのままのわたしたちをキリストにある喜びや平和や愛や憐れみをこの世界に浸透させ、前進させるために神はこの世界へと送り出してくださっています。
Jul 30, 202320:39
フィリピ1:3−11「キリストの日に向かって歩む教会」(稲葉基嗣)

フィリピ1:3−11「キリストの日に向かって歩む教会」(稲葉基嗣)

2023年7月23日 三位一体後第7主日
聖書:フィリピの信徒への手紙 1:3−11、箴言 10:12、ヨハネによる福音書15:9−12、詩編57
説教題:キリストの日に向かって歩む教会
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
信仰者が生きる上で陥りやすい危険のひとつは、今のままで良いと思うことです。たしかに、それは聖書が語るひとつの大切なメッセージのひとつです。ありのままのあなたが素晴らしい。誰もが神の前で尊い存在です。
フィリピに宛てた手紙を書いたパウロ自身も、フィリピの教会の人びとの今現在の姿を喜び、深く感謝していました。でも、パウロはフィリピ教会は今のそのままで良いとは決して考えませんでした。どれだけ今の現状が喜ばしかったとしても、フィリピ教会の人たちはそれ以上により喜ばしい未来へと向かって歩むようにと招かれているからです。
パウロはひとつのことを確信しています。それは、フィリピ教会の人びとの間で神が善い業を始めておられていて、神が始めたその善い業は必ず完成することです(6節)。フィリピ教会の歩みが完成へと向かって歩んでいるならば、ある意味で、この地上においては、常に成長の途上にあるということです。そのため、パウロはフィリピ教会に向かって、そこに集う一人ひとりの成長や、教会の成長を励ます言葉を語りかけました。
パウロはわかりやすい判断基準では成長を測りませんでした。フィリピ教会の成長を願ったパウロは、3つのことを祈りました(9-11節)。
①愛が豊かに溢れることは、この社会で溢れている現実ではありません。また、おそらく多くの人たちにとって愛情とは心の問題だと思います。頭で考えることと愛情を切り離してはいけないとパウロは伝えています。知識が欠ける時、わたしたちはしばしば愛するべき対象を適切に愛せません。だから、愛情が感情だけでなく、知識と結びつき、フィリピ教会の人びとの生き方がますます愛情に溢れるものになっていくようにとパウロは願い続けました。何よりも、神がそれを成し遂げてくださるとパウロは神を信頼して、このように祈り求めました。
また、天の御国に向かって歩む信仰者たちがその信仰の旅路を終えて、キリストと出会うその日に備えてパウロは彼らが②清い者となり、③義の実を結びようにと祈りました。神の前でとがめられることのない存在になるなんて、無理だと思ってしまいます。でもパウロは、神が将来に向かって、信仰者たちを少しずつ清い者へと変えてくれると信じ、神に信頼して祈り求めました。
わたしたちは自分の力では変わることができません。でも、将来のキリストの日に向かう信仰の旅路において、神がわたしたちを整え、変え、愛情を溢れさせてくださいます。どうか、神が成長や変化をみなさんに対して願う時、柔軟な心をもち、神への信頼を抱いて、神の働きかけを受け入れることができますように。
Jul 23, 202319:12
フィリピ1:1−2「主イエスこそきずな」(稲葉基嗣)

フィリピ1:1−2「主イエスこそきずな」(稲葉基嗣)

2023年7月16日 三位一体後第5主日
聖書:フィリピの信徒への手紙 1:1−2、イザヤ書 6:1−8、ヨハネによる福音書15:1−5、詩編100篇
説教題:主イエスこそきずな
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
フィリピの教会はパウロに対する疑いもなく、パウロと親しい関係にありました。そんなフィリピの教会に宛てた手紙で、パウロは自分のことを「キリスト・イエスのデューロス(奴隷)」と書きました。奴隷の身分ではないパウロが自分のことを奴隷と呼ぶことは衝撃です。この手紙の中でパウロはなぜ自分のことを奴隷と呼んだのでしょうか。パウロがこの手紙を書いた当時、パウロはエフェソで捕まり、投獄され、鎖に繋がれていたことも理由のひとつであったかもしれません。
ただ、パウロが投獄され、自由に身動きすることができない状況にあることは、フィリピの人びとにとって、教会の記憶を思い起こさせるものでした(使徒16章)。パウロがフィリピで一晩のみ投獄されたときに起こった出来事は、投獄され、鎖に繋がれていたパウロが誰よりも自由であったことと、鎖に繋がれず、奴隷でもなく、ローマ人であり、はるかに自由な人であった看守の方が、パウロよりも様々なしがらみに縛られ不自由であったことを伝えます。キリストとの結びつきを持つことこそ、わたしたちを本当の意味で自由にし、わたしたちに喜びを与える、とパウロは強く信じていました。パウロは、キリストのしもべは自分だけとは言っていません。パウロはここでは複数形を使い、「キリストのしもべたち」と言っています。パウロにとっては、パウロだけでなく、一緒に手紙に名前を連ねているテモテも、フィリピの教会の人たちもみんな、キリストのしもべです。
「キリストの奴隷」というとき、奴隷という言葉が持つ響きが強すぎるため、神に絶対服従といった悪いイメージがつきまといます。でも、神はわたしたちの人格やわたしたちの意志を完全に無視して、神に絶対的に従うことを求める方ではありません。神はわたしたちに絶対的な力をもってご自分の思いを押し付けるよりは、わたしたちの自由やわたしたちの意志を尊重してくださる方です。ですから、わたしたちが「キリストのしもべ」であるとき、神はわたしたちの自由やわたしたちの意志を奪うことを望んでいません。神がわたしたちをキリストとのしもべとするのは、わたしたちを不自由にするためではなく、自由にするためだからです。神はわたしたちの自由を尊重し、わたしたちが他の何者の奴隷にならないために、神はわたしたちをご自分のものとされています。それはとても逆説的なことだと思います。
わたしたちを縛り付けるものやわたしたちにつきまとうしがらみは、わたしたちが何者であるのかを最終的に決定づけるものではありません。わたしたちは神によって、キリストのものとされています。キリストと結ばれています。この事実こそが、わたしたちにとって決定的なものです。
Jul 16, 202323:09
アモス9:1−15「なぜアモスの言葉は受け継がれてきたのか?」(稲葉基嗣)

アモス9:1−15「なぜアモスの言葉は受け継がれてきたのか?」(稲葉基嗣)

2023年7月9日 三位一体後第5主日
聖書:アモス書9:1−15、ローマの信徒への手紙12:9−21、ルカによる福音書14:7−14、詩編46篇
説教題:なぜアモスの言葉は受け継がれてきたのか?
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
預言者アモスは北王国の人びとにとって、特に北王国の指導者たちにとって不都合な言葉ばかり語りました。なぜこのようなアモスの言葉を人々は大切に受け止め、次の世代に残していこうと考えたのでしょうか。
それには北王国の人びとが置かれた状況が関係していました。アモスが北王国に語りかけてから、10年以内に北王国は衰退していきました。アモスの語った警告の意味が真実味を帯びてきました。北王国が紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされてしまったとき、預言者アモスが必死に自分たちに向かって語りかけてきたあの言葉は真実なものだったのだと確信したことでしょう。一部の人びとは南王国ユダへと亡命し、その地でアモスの言葉と向き合いました。北王国のように、弱い者を虐げ、神の言葉を聞かず、自分の都合の良いように神も人も扱うような社会を築くべきではないと、彼らはアモスの言葉を南王国の人びとへ伝えたのかもしれません。でも、南王国もまた、アモスの言葉を聞くことに失敗し、捕囚が訪れました。
捕囚からの帰還民はアモスの言葉を受け止め直し、11−15節を付け足しました。14節の言葉は、アモスが語り続けたふたつのことを逆転させています。ひとつは、「私は帰らせる」という言葉です。「帰る」という語(シューヴ)をアモスは何度も繰り返し使いました。いくら神が語りかけ、アモスを通してイスラエルの民に警告をしても、イスラエルの民は神のもとに帰ってこなかったと(4章)。でも、捕囚を終えた今、この現実を神はひっくり返してくださいました。
アモスの言葉を逆転させたもうひとつのことは、彼らは築き直した町に住むことができ、ぶどう畑をつくり、そこで収穫したぶどうを自分たちで味わう未来が訪れることです。アモスが批判した北王国の現実はこれらのことが出来ていませんでした(5:11)。14節で描かれていることは、それとは正反対のことです。自分たちで建てた家に住めるし、自分たちで育てたぶどうを味わうことができます。ここで紹介されているのは、搾取のない、誰も踏みにじられることがない未来です。
イスラエルの民は長い長い時間をかけて、アモスの言葉を受け止めていきました。アモスを通して、国のあり方を信仰共同体のあり方を強く批判されたから、彼らは一体、どんな共同体を築いていくべきなのかを考え続けました。それは、神に与えられた祝福を分かち合う共同体ともいえるでしょう。アモス書に映し出されるイスラエルの姿は、わたしたちにも問いかけています。天の御国に向かって歩んでいる、わたしたちは、一体どんな共同体を築いていくべきなのでしょうか。
Jul 09, 202321:26
アモス8:4−14「安息日はいつ終わる?」(稲葉基嗣)

アモス8:4−14「安息日はいつ終わる?」(稲葉基嗣)

2023年7月2日 三位一体後第4主日
聖書:アモス書8:4−14、ヘブライ人への手紙 4:8−11、マタイによる福音書6:10、詩編148
説教題:安息日はいつ終わる?
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
聖書が語る安息日という7日に1度の休みは、現代社会が声高に叫ぶこのような声とはまったく違う方向を向いています。ヘブライ語ではシャバット。「止まる」「停止する」という意味です。神は安息日という日を通して、すべての人に立ち止まるようにと招いています。
立ち止まることを通して、イスラエルの民はふたつのことを思い起こしました。ひとつは、人間が神に造られ、いのちを与えられていることです。神がこの世界のすべてを喜び、その素晴らしさを味わったように、わたしたち人間にも神の創造のわざをいのちに溢れるこの世界を、自分自身の存在を喜び、味わってほしいと願ったから、神は7日目に立ち止まることを安息日を通して提案しました。
イスラエルの民が立ち止まることを通して思い起こしたもうひとつのことは、あらゆる人間が、誰一人欠けることなく平等であることです。社会的立場や性別や仕事の内容にかかわらず、あらゆる人々が平等に立ち止まる日が安息日でした。この日は、あらゆる搾取から誰もが解放されて、すべての人の尊厳の回復が目指されるべき日でした。
そう考えると、「安息日はいつ終わるのか」(5節)という商売人たちの言葉には衝撃を受けてしまいます。安息日が早く終わって、早く自分の仕事に戻りたいと願っている彼らの動機はたくさんの人々に仕えて、多くの人の喜びをこの世界にもたらしたいといったものではありませんでした。その大きな動機は、弱い人々から更に搾取したいというものでした。「安息日はいつ終わるのか?」と問いかけた彼らは、安息日が終わって、また再び、搾取や不正をすることが当たり前の日常に早く戻りたいと願っていました。安息日に休み、神を礼拝していたとしても、この日に思い起こすべき神の思いに耳を傾けずにいたのが彼らの現実でした。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちは信仰の旅路において、安息日の休みの終わりではなく、その始まりに向かっていると伝えています(4:9)。著者が語るのは、7日ごとの安息日のことではありません。わたしたちの信仰の旅路の終わりに訪れる、神のもとで安息する日です。天の御国においてこそ、神に与えられたいのちをお互いに心から喜ぶ日が訪れ、天の御国においてこそ、この社会で苦しんだ搾取や不平等は過ぎ去り、お互いに対等な存在としてすべての人と出会えるとわたしたちは信じています。だからわたしたちはこの安息日の訪れを目指して歩み続けます。神の思いが天でなされるように、地にも実現するようにと祈りながら(マタイ6:10)。
Jul 02, 202320:48
アモス7:7−8:3「結局、アモスは何者なの?」(稲葉基嗣)

アモス7:7−8:3「結局、アモスは何者なの?」(稲葉基嗣)

2023年6月25日 三位一体後第3主日
聖書:アモス書7:7−8:3、マタイによる福音書16:13−20、コリントの信徒への手紙 一 3:6−9、詩編8
説教題:結局、アモスは何者なの?
説教者:稲葉基嗣

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【説教要旨】
祭司アマツヤは、ヤロブアム2世の行いに信仰的な保証を与える存在でした。そのため、アモスの言葉を拒否する祭司アマツヤの言葉とその態度は、ヤロブアムをはじめ、北王国の人たちにとって、特に指導者たちにとって、北王国が経済的にも、政治的にも成功を収めているその背後で苦しんでいる民衆がいることを無視している現状を肯定する言葉や態度でした。
アマツヤは北王国の指導者たちを代表するような存在でしたので、彼らの声を代表してアモスを拒絶します。「君は南王国の人間だろ?自分の国に帰って、そこで活動してくれ」(12節参照)。
アマツヤの拒絶に対するアモスの回答はとても不思議なものです。
私は預言者ではなく、預言者の弟子でもない。
私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。(アモス7:14)
一体、アモスはなぜ預言者であることを否定したのでしょうか。アモスがしているのは自分の立場を低評価へと導く自白です。アモスにとって預言者という立場は、「わたしは預言者です」と自ら名乗る必要のあるものではなかったのでしょう。また、「あなたは預言者だ」とか、「あなたは預言者ではない」などと他の人から評価され、判断される必要のあるものでもありませんでした。アモスにとって、神が自分にこの役割を与えたということが重要でした(15節)。つまり、アモスでも、アマツヤや北王国の民衆でもなく、ただ神こそがアモスが誰であるのかを決定づけました。
アモスに対するアマツヤのように、他の人たちは、好き勝手物を言います。わたしたちの社会は、「あなたはこういう人間だ」と何度もわたしたちを評価し、わたしたちを社会の枠組みの中で定義づけようとしてきます。そんな言葉を日々聞いているわたしたちは、わたしが誰であるのかを定義づける周囲の声が大きいため、とても大切なことをしばしば忘れてしまいます。神がわたしたちをどのように見て、どのように呼んでいるのかを忘れてしまいます。
詩編8篇の詩人は、「人とは何者なのか」と驚きの声を上げています。それは、神がわたしたちひとりひとりを心に留めてくださるからです。そして、神がわたしたち人間を神に似た者として造られたからです。創世記1章27節によれば、すべての人は「神のかたち」に造られています。わたしが何者であるのかを定義し、評価してくる、この世界の声は大きすぎます。だからこそ、いつも思い起こしたいのは、誰もが一人として欠けることなく、神に造られ、尊ばれ、喜ばれる存在であることです。あなたを良い、美しい存在だと呼びかける神の声に耳を澄まし、あなたが、あなたと共に生きるすべての人たちが、神の前で何者であるのかを思い出し続けてください。
Jun 25, 202322:52
アモス7:1−6「それでも、とりなしの祈りは終わっていない」(稲葉基嗣)

アモス7:1−6「それでも、とりなしの祈りは終わっていない」(稲葉基嗣)

2023年6月18日  三位一体後第2主日

聖書:アモス書7:1−6、ルカによる福音書22:31−34、ヘブライ人への手紙7:24−25、詩編32

説教題:それでも、とりなしの祈りは終わっていない

説教者:稲葉基嗣


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【説教要旨】

最初のふたつの幻で、北王国の広範囲に及ぶ神の裁きが語られています。バッタの大量発生は農作物に大きな被害を与え、飢えをもたらします。ふたつめの幻では、火が大いなる深淵をなめ尽くします。深淵(テホーム)は、地下の水のことであり、地上全体の水の源です。深淵から水が取り去られたら、水を得る手段はなくなり、土地は乾いてしまいます。もしもこれら最初のふたつの幻が実際に実行されてしまったならば、あまりにも悲惨な結末が訪れたことが想像されます。

アモスがこの幻の内容を知らされた時、彼は居ても立ってもいられなくなり、神の前に立つことを決めました。

「主なる神よ、どうかお赦しください。どうかおやめください。」(2節、5節)

神はアモスの訴えを聞き、「このことは起こらない」と、二度約束します(3節、6節)。アモスは、イスラエルに対する神の憐れみにたしかに触れました。でも、アモスが神の決断に抵抗するのはここまででした。3つ目の幻以降、アモスはイスラエルのためにとりなし祈ることをしません。ただ、神と対話を重ね、神の思いを知ることにアモスは努めています。でも、正直なところ、アモスは神に対してイスラエルのためのとりなしの祈りをやめるべきではなかったのではないかと思ってしまいます。なぜアモスは諦めてしまったのかと感じてしまいます。

いいえ、アモスには、とりなしの祈りをやめる道しか残されていなかったのでしょう。神との対話を通して、北王国の罪がどれほど大きく、神にとってその罪が耐え難く、神を悲しめることであったかをアモスは知ってしまったのです。だから、アモスはとりなしの祈りをやめました。

積み重なる人間の罪の前には、何も希望はないのでしょうか。アモスが諦めてしまったほどですから、誰も神の前に立ってとりなし祈ることは出来ないのでしょうか。人間の罪を前にしたとき、預言者はとりなし続けることしかできませんでした。罪を裁く神に同意して、神の裁きに触れた人々が、神に立ち返る日の訪れを期待することしか、この預言者は選ぶことができませんでした。

けれど、イエス・キリストは、別の道をひらいてくださいました。それは、イエスさまが神の前に立って、とりなし祈り続ける道です。また、イエスさまを通して、わたしたちが罪の赦しを得るという道です。それは、どれほど罪を抱えていようとも、変わることのない事実です。イエスさまはどこまでもわたしたちを諦める方ではありません。だから、わたしたちは神から裁きを受ける恐怖を抱くのではなく、イエスさまを通して罪の赦しを得ていることへの感謝と喜びを抱いて、この信仰の旅路をきょうも歩んでいます。

Jun 18, 202322:03
ローマ13:1−7「すべてのものの主であるキリスト」(石田学)

ローマ13:1−7「すべてのものの主であるキリスト」(石田学)

2023年6月11日  三位一体後第1主日

聖書:ローマの信徒への手紙 13:1−7、エゼキエル書 31:1−7、マルコによる福音書1:40−42、詩編46

説教題:すべてのものの主であるキリスト

説教者:石田学


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【説教要旨】

主にある兄弟姉妹の皆さん、わたしたちは二重国籍を持つ者です。キリストを信じ、神の民とされた時から、それは始まっています。わたしたちの大半は、生まれた時から地上の国家に国籍を持っています。地上の国の国籍は大切ですが、永遠のものではありません。別の国に移住して市民権を獲得すれば、国籍は変わることになります。

だが、わたしたちはキリストを信じたことにより、神の民とされ、神の国を永遠の郷里として世を旅する者とされました。キリスト者は地上の国で生きていますが、そこの定住者ではありません。天の国に国籍を持っているからです。こちらは永遠の国の国籍ですから、永遠の国籍です。この二つの国籍を、わたしたちは今同時に生きています。

同時にということが、何よりも重要なことです。今は地上の国の国民で、この世の価値観と法則に基づいて生き、天の国に行ったら、天の国の価値観に基づいて生きるのではありません。地上での生涯においてどちらか一方だけしか重んじないとしたら、わたしたちキリスト者にとって正しい生き方ではありません。わたしたちは、今この世の市民としてふさわしく生きるべきですし、同時に、それ以上に天の国の市民としてふさわしく生きるべきです。

パウロは、はっきり「人は皆、上に立つ権力に従うべきです」と命じます。パウロは、この世の国や権威が神とは無関係だとは考えていません。権力は神に由来し、神によって立てられているからです。神は天地創造によって、秩序と平和と幸福の世界を造り、維持しています。地上の国家も権力も法も、秩序と平和を維持する神の働きです。国家と権力、地上の法と秩序は、神による創造と関連して考えるべきです。それはわたしたちが国家や権力に絶対服従するという意味ではありません。

教会の皆さんは、特定の政党や政治理念を抱き、支持することでしょう。教会としては特定の政党や政治的立場と一体化したりはしません。いろいろな立場の人が、天に国籍を持つ兄弟姉妹として共存しています。

しかし、わたしたちはパウロが指摘する重要な点に目を留めましょう。「人は皆、上に立つ権力に従うべきです」。わたしたちが上を見上げる時、究極の権力として何を見るべきでしょうか。国家でしょうか、支配者でしょうか、民族でしょうか、財産でしょうか。いいえ、上に立つ究極の権力は、すべてのものの主であるキリストです。それらすべての上におられるキリストこそ、見上げ従うべき方。わたしたちはキリストにより地上のいっさいの権力を判断するのです。

Jun 11, 202328:46
アモス6:1−14「分断を乗り越える宴会へようこそ」(稲葉基嗣)

アモス6:1−14「分断を乗り越える宴会へようこそ」(稲葉基嗣)

2023年6月4日  三位一体の主日

聖書:アモス書6:1−14、ルカによる福音書 5:27−32、ヨハネの手紙 一 4:13−16、詩編148

説教題:分断を乗り越える宴会へようこそ

説教者:稲葉基嗣


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【説教要旨】

北王国の人口のほんの一握りであった上流階級の人たちは、自分たちの経済的な成功を喜び、味わうために、宴会を開いていました。

アモスが描く彼らの宴会は、実に贅沢なものでした。アモスはこの宴会を批判しますが、その理由は、この宴会を楽しんでいた彼らが、ヨセフの破滅に心を痛めることがなかったからでした(7節)。ここでは北王国全体を代表して、ヨセフの名が用いられています。北王国が破滅へと向かっているのに、宴会を楽しんでいる彼らは、その事実に気づかないふりをしていました。自分たちが楽しんでいるその贅沢さを削って、苦しんでいる人たちに手を差し伸べようなどと、彼らは考えもしませんでした。このように、北王国で指導的な立場にあった人たちが開いていた宴会は明らかに、北王国の分断の象徴でした。

このような分断は、アモスが批判した後もイスラエルの社会の中にありました。アモスの時代からかなりの時代を経た現代であっても、悲しいことに、人と人の間を引き裂くような出来事がなくなることはありませんでした。実に様々な形でわたしたちの暮らすこの社会には、分断が存在しています。それはまるで、北王国の中で開かれていた分断を象徴した宴会の延長線上にあるような世界です。

ということは、わたしたちが生きる世界は、そういう世界なのだと受け止めて、希望など抱かずに、諦めて暮らしていかなければいけないのでしょうか。いいえ、それとは真逆の宴会がイエスさまのために開かれたことを福音書の物語は喜ばしい知らせとして伝えているではありませんか。

イエスさまが共に座ってくださる宴会は、徴税人が招かれたパーティでした。イエスさまは、罪人とみなされていた人たちも、病人も、別け隔てなく、その宴会へと招く方でした。イエスさまが招く天の国の宴会は、わたしたち人間が作り出してしまうような分断を乗り越えて、手と手を結び合わせるような可能性を持つものでした。その喜ばしいパーティに、みなさんはもう既に招かれています。分断を乗り越える天の国の宴会へようこそ。

分断が広がる世界に向かって、わたしたちも呼びかけることが出来るはずです。分断を乗り越えることが出来る、そんな約束を語りかけてくれる世界があるんだよ。わたしたちが集うこの教会の交わりがイエスさまが与えてくださった希望の言葉を少しでも反映する歩みを続けていくことができますように。わたしたちの教会が、分断が当たり前のこの世界に向かって、神の招く声を一緒に発することができますように。

Jun 04, 202316:45
アモス5:18−27「公正と正義が水のように流れ続けるならば」(代読)

アモス5:18−27「公正と正義が水のように流れ続けるならば」(代読)

2023年5月28日  聖霊降臨祭

聖書:アモス書5:18−27,ヨハネによる福音書7:37−39,ローマの信徒への手紙15:13,詩編67

説教題:公正と正義が水のように流れ続けるならば

説教者:稲葉基嗣(*牧師不在のため代読による説教)

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【説教要旨】

預言者アモスが活動をした北王国イスラエルがあったパレスティナでは、土地は乾いていて、川は常に水が流れているわけではありませんでした。この地域の川はヨルダン川とその支流を除くと、雨が降る時期以外は涸れてしまう「ワディ」と呼ばれる川です。普段は乾ききっている土地で暮らす人たちにとって、水はとても貴重で、命を左右するものです。そのため、水にたとえられている公正さはイスラエルの社会にとって、とても重要で、必要なものでした。でも、彼らにとって川とはワディです。普段は、雨季以外の時期は、乾ききっています。つまり、公正や正義が見当たらない、乾ききった、腐敗した社会をイスラエルの民は想像したと思います。公正さや正義がないから、政治も、経済も、礼拝も腐敗してしまっている。誰もが正義の実現を諦めきってしまっている。そんなイスラエルの社会に向かって、アモスは語りかけました。

だからこそ、当時の人々がアモスの言葉に衝撃を受けたのは間違いありません。公正と正義を絶え間なく流れさせよとアモスは語りかけているからです。それは、まさに洪水のようなものでした。実際、正義や正しさは時として暴力的です。正しさに触れる時、自分の誤りを認めて、あるべき状態に正さなければいけないのですから。

古代の社会において、洪水は単なる災害ではなく、恵みをもたらすものです。普段、乾ききっている土地に水を、栄養のない大地にたくさんの栄養をもたらし、洪水によって潤った土地で作物が育つ可能性を与えるからです。同じように、神の正義と公正が洪水のように決して止まることなくわたしたちのもとにやってくるならば、それは今、この社会で苦しんでいる人にとって希望です。

聖霊降臨祭であるきょう、水は聖霊の象徴であることを思い起こします。水のように、聖霊がわたしたち一人ひとりに臨み、聖霊を通して、わたしたち一人ひとりから神の愛や憐れみが流れ出るならば、同じように、神の正義や公正はわたしたちから聖霊を通して流れ出ていくことを神は望んでいるに違いありません。水のように絶え間なく、聖霊を通してわたしたちから流れ出る神の正義が、みなさんの日常に、わたしたちの暮らす社会に染み渡っていきますように。正義を水のようにこの世界に浸透させたいと願っている聖霊の働きに押し出されて歩んでいきましょう。

May 29, 202317:23
アモス5:1−17「嘆きの中で神を求める」(稲葉基嗣)

アモス5:1−17「嘆きの中で神を求める」(稲葉基嗣)

2023年5月21日  復活節第7主日

聖書:アモス書5:1−17,マタイによる福音書25:31−46,ローマの信徒への手紙3:21−26,詩編8

説教題:嘆きの中で神を求める

説教者:稲葉基嗣


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【説教要旨】

どの広場でも、どの通りでも、嘆きの声が北王国中に響いていました。この嘆きの声の正体は、ヘブライ語ではキーナーという、愛する人を亡くしたとき、葬りのときに歌う嘆きの歌でした。生きている自分たちに向かって歌われる嘆きの歌を聞くようにと、アモスは北王国イスラエルの人々に向かって語りました。

アモスが聞くようにと招く嘆きの歌は、まったく希望を見いだせない歌です。イスラエルは自分の力で起き上がることができません。イスラエルに手を差し伸べて、倒れた身体を起こしてくれる人もいません。その上、その身体は地に捨てられ、野に放置されたままで、誰も適切な葬りをしてくれないことを想像させられます。

アモスがこのような言葉を語らなければならなかったのは、北王国の社会の中で正義が捻じ曲げられていたからです(7節および10〜13節を参照)。歪んだ正義が蔓延った結果、キーナーが北王国の中に響き渡っていました。

自分の国や自分の所属するグループに向かって、嘆きの歌を歌うことは、古代イスラエルだけに見られた現象ではありません。国が滅んだわけではないけど、すでに滅びを迎えたかのように歌うこの嘆きの声は、形を変えてこの世界で響き続けています。嘆きがわたしたちの人生を包み込んでいるように見えます。

アモスのこの言葉を前にするとき、わたしたちに出来ることは嘆くことだけだと感じてしまいます。けれど、「本当にそうなの?」とアモスが言っているように感じるのは、わたしだけでしょうか。嘆きに溢れるイスラエルに対して、アモスは神を求めよ、生きよと叫びました。

なぜこの言葉が希望となるのでしょうか。それは、神があらゆることをひっくり返すことが出来るからです。きょう読んだアモス書の箇所の中心は、嘆きの歌キーナーではありません。すべてを転覆させることの出来る創造主である神をたたえる讃美歌です。神は不正義をひっくり返し、正義をもたらすことができる方です。そうであるならば、この嘆きの歌さえも喜びの歌へと変えることもできるでしょう。だから、神を求めよ。神によって生かされなさい。嘆きの声が溢れる北王国の中でアモスはその嘆きがひっくり返されることを願い、ひたすらそこで暮らす人々に訴え、語りかけたのです。

このようなアモスの言葉に耳を傾けるならば、嘆きに同調し、声を合わせるだけがわたしたちの選ぶことができる生き方ではないことは明らかです。嘆きがあふれる現実の中で、私たちはただ嘆くだけでなく、神を求め続けます。神にこそ、わたしたちの希望があるからです。

May 21, 202321:17
1テサロニケ2:1−4「語る者と聴く者」(土肥努)

1テサロニケ2:1−4「語る者と聴く者」(土肥努)

2023年5月14日  復活節第6主日

聖書 テサロニケの信徒への手紙 一 2:1−4、エレミヤ書1:4−8、マタイによる福音書16:23−24、詩編62

説教題 語る者と聴く者

説教者 土肥努(日本ナザレン教団理事長)


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【説教要旨】

テサロニケで伝道していた時のことをパウロは次のように語っています。「あなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでした」(2:1)と。パウロたちは、伝道を始めて間もなく、反対者による騒動で、テサロニケを立ち去らなければならなくなりました。パウロたちの伝道はそういう「激しい苦闘」の中でなされていました。しかしその中でパウロたちは、「わたしたちの神に勇気づけられ」て、大胆に語る勇気と力を神から与えられ、その働きは、けっして無駄ではなかったというのです。

敵対や妨害の中で、勇気を持って大胆に語ることができるためには、伝道者の中の語る動機が問題です。語る者の中に「迷い」があったなら力強く大胆に語ることはできません。人を喜ばせることばかりを考え、人の顔色をうかがっていくところに、迷いが生じます。パウロは、自分たちの宣教は人を引き付けるための、人気を得るためのものではない、したがって迷いは一切ないと断言します。

パウロの宣教の基本姿勢は、人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくために語るというところにありました。人の顔色をうかがうのではなく、神に喜んでいただくために、神のみ顔を見つめながら語るのです。そのように神にしっかりと顔を向けている者に福音が委ねられているのです。人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくためにこそ語る、そのことに徹していくことができるかどうかに、伝道者が福音を力強く語ることができるかどうかがかかっています。

そして、伝道者のこの戦いは、教会の人々が福音によって生かされていくことができるかどうかを左右します。その伝道者が教会に遣わされていったことがよい実りを生むか、それとも無駄なことに終わってしまうかの分かれ道がそこにあるのです。従って、伝道者のこの戦いは、聴く人々にとって他人事ではありません。教会の人々が伝道者に、自分たちを喜ばせ耳触りが良くて心地よいこと、つまり、あなたは今のままでいいのだ、変わらなくてよいのだ、ということだけを語ることを求め、神のみ言葉によって打ち砕かれ、悔い改めて変えられていくことを拒むという姿勢でいるならば、伝道者も、結局はその人々の顔色を伺うようになってしまいます。

人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくために、という姿勢は、それゆえに伝道者(語る者)と教会の人々(聴く者)とが、共に願い求め続けてゆかなければならないものであると言えます。このことが教会の全体に行き渡ってゆくならば、すばらしい宣教の働きがなされ、よい実りが与えられることでしょう。

May 14, 202326:34
アモス4:4−13「それでも、神は出会いを求めている」(稲葉基嗣)

アモス4:4−13「それでも、神は出会いを求めている」(稲葉基嗣)

エピソードタイトル:

アモス4:4−13「それでも、神は出会いを求めている」(稲葉基嗣)


詳細:

2023年5月7日  復活節第5主日

聖書 アモス書4:4−13、マタイによる福音書5:8、コリントの信徒への手紙 二 4:8−13、詩編100

説教題 「それでも、神は出会いを求めている」

説教者 稲葉基嗣


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【説教要旨】

礼拝への招きの言葉を用いて、アモスは罪を重ねるようにと呼びかけています。この呼びかけの後に礼拝の方法について命じることによって、イスラエルの礼拝の方法が罪深いものだと、アモスは伝えようとしています。イスラエルの民の礼拝は、神に向かって礼拝をしているように見えて、実際のところは自分たちのことにばかり集中しているものだったようです。ただ自分たちの思いや願いが実現されることを願って、神の願いや思いなどは無視して、彼らは神を礼拝していました。アモスは本当のところは礼拝を呼びかけていません。アモスは礼拝へと招く表現を用いて、イスラエルの民が礼拝の中で犯していた罪を暴こうとしているのです。

そう考えると、6−11節になぜ裁きのリストがあるかがわかります。聖書において、神が人をさばくのは、神のもとに帰ってきて欲しいからです。人が神との間に新しい関係を築き直し、神の民として歩み直して欲しいからです。でも、このリストはとても悲しい響きを持っています。「それでも、あなたがたは私のもとに帰らなかった」と繰り返されています。神の願いは虚しく、神のもとへと帰らないイスラエルの民の姿が描かれています。彼らは自分たちのことを正当化してくれる神こそ、求めました。自分が見つめたい神の姿のみを見つめていました。神を経済的繁栄や軍事的勝利をもたらす神としか見えなくなってしまうとき、人は自分の利益のみを追い求めた神の姿しか見えていないのでしょう。それがまさにイスラエルの問題でした。だから、アモスは彼らが望む神とは正反対の神の姿を提示しました。

その上で、アモスはイスラエルの民に「自分の神に会う備えをせよ」(12節)と呼びかけました。罪を指摘されるとわかっているのに、なぜ神のもとへ行かなければならないのでしょうか。そんなこと出来るはずありません。でも、わたしたちが信じる神は、わたしたちのことが憎たらしくてしょうがないから、イスラエルの民への裁きを見せつけているわけではありません。神の側がわたしたちとの出会いを求めているから、アモスを通して、神はわたしたちに語りかけています。神がわたしたちとの間に親密な関係を築きたいから、神の側が、わたしたちと顔を合わせて語り合いたいと願っているから、あなたの神に会う備えをしなさいと、神はアモスを用いて呼びかけています。私たちひとりひとりとの出会いを求めて神はいつも待っておられます。

May 07, 202317:60
アモス3:9−4:3「噛みつかれてしまった!」(稲葉基嗣)

アモス3:9−4:3「噛みつかれてしまった!」(稲葉基嗣)

2023年4月30日  復活節第4主日

聖書 アモス書3:9−4:3、マタイによる福音書6:19−21、ペトロの手紙 一 5:7、詩編62

説教題 「噛みつかれてしまった!」

説教者 稲葉基嗣


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【説教要旨】

アモスの言葉のターゲットは、明らかに、北王国のほんの一握りの人たちです。経済的な繁栄によって、生活が更に豊かになった人たちです。問題であったのは、ほんの一握りの上層階級の人たちが、自分たちの生活が裕福になったのにも関わらず、北王国で暮らすその他の大多数の人たちの生活を踏みにじってきたからです。

だから、アモスは「彼らは暴力と略奪を城郭に積み重ねている」と叫びました。アモスは北王国の中心部に集められている財産を比喩的に表現しています。北王国の富裕層の財産は、まさに、多くの人たちから搾取した結果であり、経済的な暴力を積み重ねた結果でした。

そんな彼らは、おそらく貿易で手に入れた長椅子や寝台に横たわりました。そこには権力の象徴であるライオンの姿が装飾の一部として付けられていました。ライオンのように力強い神の保護を期待して、神の名の下に自分たちの権力や地位や生活が安定することを願って、彼らは長椅子に座り、寝台に横たわりました。

でも、信頼して、経済的な繁栄を味わい、横になっていたら、ライオンに噛みつかれてしまった!何とも皮肉な結末です。ライオンの守りの中にあると信じていたのに!

経済的な豊かさや贅沢さは、本質的には人を守ることができません。たしかに経済的なゆとりや豊かさは、人の心や生活を豊かにします。でも、その手元にある豊かさの背後に誰かの苦しみや涙があるならば、その贅沢さの背後に搾取があるならば、財産を蓄えることは、本質的には暴力と略奪を積み重ねていることです。

アモスの言葉は、痛いほどに現代社会とそこで生きるわたしたちを批判します。わたしたち自身も財産を積み重ねることによって、暴力と略奪を積み重ねている可能性があるのですから。

そんなわたしたちに向かって、「天に宝を積め」とイエスさまは語りかけました。神にとっての宝は、わたしたちがこの地上でどれだけ成功したかではありません。むしろ、わずかなものかもしれないけど、わたしたちの手元にあるものでどれだけ共に生きる人たちを愛することが出来たか。憐れみや愛を抱いて、どれだけ苦しむ人に手を差し伸べることが出来たか。イエスさまが勧めた天に宝を積むって、そういうことです。

天に宝を積むことを通して、天にわたしたちの心を置くようにと、イエスさまは勧めます。わたしたちは地上に永遠に留まるためではなく、天の故郷を目指して旅をしているからです。

Apr 30, 202318:46
マタイ28:16–20「主イエスはどこにいるのか?」(稲葉基嗣)

マタイ28:16–20「主イエスはどこにいるのか?」(稲葉基嗣)

2023年 4月23日 復活節第3主日
聖書 マタイによる福音書28:16−20、ハガイ書1:12–15、ローマの信徒への手紙14:9、詩19
説教題 「主イエスはどこにいるのか?」
説教者 稲葉基嗣

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【説教要旨】
マタイは弟子たちの心の葛藤なようなものをとても簡潔に表現しています。
「イエスに会い、ひれ伏した(礼拝した)。しかし、疑う者もいた。」(17節)
弟子たちは復活したイエスさまと直接出会えたからといって、完全に喜びで心がいっぱいになったわけでも、神を礼拝する思いで溢れたというわけでもありませんでした。それよりも、イエスさまを裏切って、見捨ててしまったこと、自己保身のためにイエスさまのことを否定してしまったことなど、過去の過ちが頭の中を駆け巡り、どうして良いかわからず、彼らは戸惑いました。
そんな弟子たちのもとにイエスさまは近寄って来て、彼らに語りかけました。わたしたちの生きる社会の論理で物事が進むならば、きっと、失敗した弟子たちはもう用済みになってしまうことでしょう。
けれど、イエスさまは弟子たちを見捨てませんでした。弟子たちを諦めず、信頼して、彼らの過去の過ちを赦し、失敗した彼らに、弟子であり続けることを求めています。この弟子たちを通してイエスさまはすべての人をご自分のもとへと招きました。君も弟子にならないか?一緒に天の国を目指す旅に加わらないか?神がわたしたちに与えてくださる、天の国の喜びや驚きを一緒に味わい、一緒に学び続けないか?
弟子は、先生の後をついて、先生から学び続ける必要があります。先生の後に倣って、先生をまねて、どのようにこの世の旅路を歩むべきか、どのように日常で遭遇する問題について考えるべきか、どのように困難な中で神に従うべきなのかを学び続ける必要があります。
わたしたちが招かれている弟子というあり方は、牧師や、教会の役員や、信仰歴の長い人たちの弟子になることではありません。主イエスの弟子となることです。
どのような形でイエスさまはわたしたちと共にいてくださるのでしょうか。神が共にいるというメッセージは、マタイによる福音書でブックエンド(本立て)のような役割を果たしています。この福音書の冒頭の物語で、母マリアのお腹の中いるイエスさまはインマヌエル(神はわたしたちと共にいる)と呼ばれました。目には見えないけれど、イエスさまが霊にあって、わたしたちひとりひとりと共にいてくださることがとても象徴的に示されています。
そうであるならば、あらゆる人を弟子に招くイエスさまは、あらゆる人と共にいてくださっているはずです。みなさんの人生のいついかなるときも、イエスさまを通して神は共におられます。
Apr 23, 202319:59
マタイ28:11-15「不都合な物語」(稲葉基嗣)

マタイ28:11-15「不都合な物語」(稲葉基嗣)

2023年4月16日 復活節第2主日

聖書 マタイによる福音書28:11−15、エゼキエル書37:1−11、詩編16、コリントの信徒への手紙 第一 15:1−8

説教者 稲葉基嗣


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【説教要旨】

イエスさまを通して神がもたらした良い知らせは、この世界を支配する人たちにとっては、かなり都合の悪い知らせでした。喜びも、平和も、将来への希望も、この世界を治める権威も、皇帝ではなく、イエスにこそあると宣言しているのですから。この世界を支配するほんの一握りの人たちの支配は過ぎ去り、イエスさまこそがこの世界の王として訪れたというのですから。

ユダヤの宗教指導者たちにとっても、イエスさまの周辺で起こった出来事と、イエスさまが復活したという知らせは、とても都合が悪いものだったようです。彼らは、イエスさまが死んだ後によみがえると話していたことを思い出して、イエスさまの身体が置かれた墓を兵士たちに守らせました。弟子たちがイエスさまの身体を盗んで、「主はよみがえった」と言い出さないように。でも、兵士たちはその役目を果たすことが出来ませんでした。天使が現れて、倒れて、気を失ってしまっていたのですから。天使が現れたことは、明らかに、神がイエスさまを通して働かれている証拠でした。だから、長老たちと祭司長たちは兵士たちからの報告を聞いたとき、この事実を隠そうとし、別の物語をでっち上げました。兵士たちが寝ている間に、弟子たちがイエスの身体を盗んだ、と。このようにして彼らは、自分たちにとって都合の悪い物語を、賄賂を用いて、たくさんの銀貨を用いて、どうにかして自分たちにとって都合の良い物語へと書き換えて、その偽りの物語を周りに広めていきました。けれど、結局のところ、彼らの試みは失敗に終わりました。主イエスにある福音は、誰にでも都合の悪い物語として届く可能性があります。耳をふさぎたくなる神の言葉が良い知らせとして届くことだってあるのです。

そんな都合の悪さに勝って、イエス・キリストにある福音は、わたしたちに喜びと希望を告げる物語です。天の国は、ほんの一握りの人のためのものではなく、あなたのためのものだと、神はすべての人々に向かって語りかけています。時々、わたしたちが良い知らせと受け止めている福音は、都合の悪い物語として、みなさんのもとに届くかもしれません。でもどうか、それにもまさる幸いが福音にあることに目を留め続けて、この地上での信仰の旅路を歩み続けていくことができますように!ときには、一緒に神と共に歩む幸いを分かち合いながら、またときには心に感じた不都合さを共に分かち合いながら、わたしたちはこの旅を続けていきましょう。

Apr 16, 202321:09
マタイ28:1-10 「揺れる信仰、揺るがぬ神の愛」(稲葉基嗣)

マタイ28:1-10 「揺れる信仰、揺るがぬ神の愛」(稲葉基嗣)

2023年4月9日 復活の主日

聖書 マタイによる福音書28:1−10、ダニエル書10:5−6

説教者 稲葉基嗣


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【説教要旨】

イエスさまが十字架にかけられ、十字架の上で息を引き取ってから3日目に、ふたりの女性がイエスさまのお墓の前に立っていたとマタイは記録しています。彼女たちが大きな悲しみを抱えてお墓の前に立っていたことは間違いありません。イエスさまの葬りやお墓のもとに、ふたりの女性たちしかいないことを通して、どれほど多くの人たちが失望し、落胆していたかがわかるでしょう。これまでイエスさまと一緒に歩んできた多くの人たちがイエスさまの死を通して、動揺し、失望し、離れていきました。それでも神は、イエスさまのもとから離れていった多くの人たちを見捨てませんでした。

マタイは、イエスさまの復活の日の朝に起こった出来事に、深く神が関わっておられたことを示しています。天使が、イエスさまが葬られたお墓に訪れ、

墓石を転がし、お墓を開けました。天使が現れたのは、イエスさまが復活するその瞬間をこの女性たちや墓を見張る人たちに見せるためではありませんでした。イエスの身体が墓の中にないことを見せるために、天使は現れました。彼女たちが悲しんでいるそのとき、神が既にその背後で働いていたことを空の墓を見せることを通して、天使は彼女たちに伝えました。イエスさまの死を通して、彼女たちの心は、信仰は揺れ動いていました。でも、神の愛は変わらず、揺るがないものでした。お墓の中にイエスさまの身体がなかったからです。

主はよみがえられた!それは、わたしたちに喜びと希望を与える合言葉です。イエスさまが復活したから、暴力や死の力が永遠の勝利者ではないことをわたしたちは知っています。この世界にはびこる暴力も最後には終わりを迎え、神が平和と解放をもたらし、死と暴力で蹂躙される世界に新しい命の息を与えることをわたしたちは希望として抱き、信じています。神の子が復活したから、わたしたちは死の先に復活を望み見ています。

この地上の旅の先に、天の御国があることを知っています。死によっても奪うことができない、決して揺るがない神の愛がイエスさまを通して、わたしたちに注がれています。わたしたちの生涯の歩みにおいて、わたしたちの足元がおぼつかない、危なげな一歩一歩において、神の揺るがない愛は注がれています。これが、わたしたちの人生を強く包み込んでいる希望です。

Apr 09, 202318:43
マタイ21:1–11 「揺れる都、揺れぬ御国」(稲葉基嗣)

マタイ21:1–11 「揺れる都、揺れぬ御国」(稲葉基嗣)

「揺れる都、揺れぬ御国」

2023年4月2日 しゅろの主日

聖書 マタイによる福音書 21:1−11、列王記 上1:32−40

説教者 稲葉基嗣


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【説教要旨】

イエスさまがエルサレムに入場したとき、エルサレムの都の人たちはイエスさまをどのように受け入れたのでしょうか。マタイは、都中の人びとが騒いだと記録しています。「騒いだ」と訳されているギリシア語の単語は、地震の揺れを表す言葉です。イエスさまの訪れは、エルサレムの人びとにとって、地を揺らすような、地鳴りのような、嵐のような出来事でした。普段は揺らぐことのない大地が、自分の足で立つことができないほどに、身の危険を感じるほどに揺れる。イエスさまのエルサレム入場は、あらゆるものを揺るがすような出来事だったと、マタイは伝えようとしています。

軍馬ではなく、ロバに乗ったイエスさま、平和的な王として描かれているのに、なぜエルサレムの人びとは騒いだのでしょうか。マタイは、イエスさまがエルサレムに入場した出来事についてのみ考えて、エルサレムの都が騒いだと記したのではないと思います。これからエルサレムの都で地震の揺れのような騒ぎがイエスさまを中心として徐々に大きくなることを念頭に、マタイはこの言葉を選んだのでしょう。

エルサレムの都中は、イエスさまの受難、死、復活を通して、揺れました。ある人たちは、不安を覚えました。また、動揺しました。一度イエスさまを拒絶してしまったのですから、イエスさまを通して、神が救いの手を差し伸べているだなんて、まして、イエスが神の子だなんて、信じがたく、受け入れ難いことでした。ある人たちは喜び、感動を覚えました。イエスさまを通して、神の愛が示されていると知ったからです。ご自分の愛するひとり子を十字架にかけるほどに、私たちひとりひとりを神が愛しておられることをイエスさまを通して知ったからです。

イエスさまを通して、神の愛はエルサレム中の人々を揺らしました。神の愛は、今も私たちを揺さぶり続けています。そのままでいる方が、今のままで生き方を変えない方がはるかに楽です。でも、神の愛や憐れみに触れる時、愛や憐れみが呼び起こされてしまう。そうやって、神はこの地に生きるすべての人を揺らし続けています。

その一方で、決して揺れ動くことのない、天の御国を神はわたしたちに与えてくださいました。決して揺るがない天を目指して、この世界の様々なことに揺らされながら、時には神の愛に揺り動かされながら、歩んでいく。それが主キリストにあって、この世の旅を歩む私たちです。

Apr 02, 202321:37